2012年06月09日

長崎県西彼杵郡時津町打坂 長崎自動車(長崎バス)バス車掌・鬼塚道男

 伝えたいふるさとの100話より、ちょっと良い話を紹介します。

戦後間もない昭和二十二年(一九四七年)、乗客の命を守るため、バスの車掌(しゃしょう)だった鬼塚道男(おにづかみちお)(当時二十一歳)は、自ら体を張って輪止(わど)め(車のブレーキ)となり殉職(じゅんしょく)しました。
 事故現場となった長崎県時津町元村郷(とぎつちょうもとむらごう)の国道二○六号線沿いの打坂峠(うちざかとうげ)には、鬼塚車掌の勇気をたたえて建てられた「愛の地蔵」が、道ゆく人々の交通安全を静かに見守ってくれています。
 当時の打坂峠はくねくねと曲がっていて、バスの運転手からは「地獄坂(じごくざか)」と呼ばれていました。道路はまだ舗装(ほそう)されておらず、勾配(こうばい)が二○度もあり、馬力(ばりき)のない木炭バスにとってはつらい急な坂道でした。木炭バスというのは今のようなガソリンでなく車体の後ろに大きな釜(かま)を付け、木炭を焚(た)いて走るバスで、三○人も乗れば満員になるほど小さなものでした。
 鬼塚車掌は、長崎自動車株式会社大瀬戸(おおせと)営業所の二階に住み込んで働き、彼が車掌を務めるバスは、大瀬戸から長崎までの道を一日一回往復していました。
 朝八時の大瀬戸発であれば二時間前の六時には木炭をおこして準備をし、火の調子を整えておかなければなりません。また、走っていてもよくエンジンが止まり、そのたびに釜のなかの火を長い鉄の棒で突いて木炭をならしながら走っていました。このように釜の火の調子を整えることが、木炭バスの車掌の仕事でした。
 事故の起こった昭和二十二年九月一日、鬼塚車掌が乗ったバスは、打坂峠の頂上までもう少しのところでギアシャフトがはずれ、ついに動かなくなってしまいました。ギアシャフトがはずれると、バスのブレーキはまったく効きません。バスはズルズル、ズルズルと急な坂道を後ろに下がり始めました。
 「歯止めの石をかませ!」
と絶叫する運転手の声で飛び降りた鬼塚車掌は、手近にあった石をバスの車輪の前に置きましたが、加速のついたバスは石を粉々に砕(くだ)き、あと数メートルで高さ二○メートルの険しい崖(がけ)のふちというところまで迫りました。崖にバスが落ちれば乗客の命が危ない…。
 その日、最初に事故現場に駆けつけたのは、長崎自動車株式会社時津営業所に勤めていた高峰貞介(たかみねさだすけ)です。朝の十時を少し過ぎたとき、自転車に乗った人が「打坂峠でバスが落ちているぞ。早く行ってくれないか」といって、時津営業所に駆け込んできたのです。
 高峰が木炭トラックに乗って急いで駆けつけると、バスは崖っぷちギリギリのところで止まっていて、運転手が一人真っ青な顔をして、ジャッキでバスの車体を持ち上げていました。
 高峰は後に事故の状況をこう語ってくれました。
 「鬼塚車掌は自分が輪止めにならなければと思ったんじゃないでしょうか。体ごと丸くなって飛び込んで、そのままバスの下敷きになりました。鬼塚車掌の体をバスの下から引きずり出して、木炭トラックの荷台に乗せました。背中と足にはタイヤの跡が付いていましたが、腹はきれいでした。十秒か二十秒おきに大きく息をしていたので、ノロノロ走る木炭トラックにイライラしながら、しっかりしろ、しっかりしろと声をかけて…。九月といっても一日ですから、陽がカンカン照って、何とかして陰をつくろうと鬼塚車掌に覆いかぶさるようにして時津の病院に運んで、先生早く来てくれ、早く早くって大声を出しました。その晩遅くに、みかん箱でつくった祭壇(さいだん)と一緒に仏さんを時津営業所に運んで来たのです」
 鬼塚車掌は、炎天下のトラックの荷台で熱風のような空気を大きく吸い込んだのが最期でした。買い出し客や、市内の病院へ被爆(ひばく)した子どもを連れて行く途中の母親たち三○人あまりの命と引き換えに、若い生涯を閉じたのです。
 この悲しい事故から二七年の月日が流れた昭和四十九年(一九七四年)十月十九日、長崎自動車株式会社は、鬼塚車掌の勇気をたたえ、交通事故をなくそうと、時津町元村郷の事故現場に唐津(からつ)石でつくった慰霊地蔵尊(いれいじぞうそん)を建て、入魂式(にゅうこんしき)を行いました。
 この慰霊地蔵尊「愛の地蔵」は、赤いよだれ掛けを風に揺らし、鬼塚車掌の命日である九月一日には毎年供養祭(くようさい)が行われています。


posted by センベイ at 06:18 | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年06月05日

青森県 県名の由来

青森県の 県名の由来です。

ひろしまの風景というサイトの  都道府県名一覧 では、
※ここから引用
明治4年から現在の県名。明治4年9月5日、弘前県・七戸県・八戸県・斗南県・黒石県・館県の6県を合わせた弘前県が成立するが、明治4年9月23日、県庁を弘前から青森へ移して一部を引き継ぎ、青森県と改称した。 青森は、江戸期には、青盛とも書いた。地名は、一年を通じて松が青々と生い茂ることから青森山と呼ばれた地名に由来する(青森市沿革史)。
※ここまで。

地名由来辞典では、
※ここから引用
青森の名は、近世初頭に米町(現在の本町5丁目)にあった「青森山」という小丘陵の名から、「青森町」と命名された。
山の名前の由来は、磯馴松(そなれまつ)が青々と生い茂った小高い森であったからとする説と、「ア・オ・モリ」と分け、アイヌ語で「ア(接頭語)」「ヲ(高くなった所)」「モリ(盛)」から「突き出た丘」を意味する説がある。
その他、アイヌ語説には意味が異なるいくつかの説があるが、「ア・オ・モリ」と細かく分割し、音を当てはめただけの説が多いため信憑性は薄い。
※ここまで。

ウィキペディアでは、
※ここから引用
明治4年(1871年)9月に当時弘前町に設置されていた県庁が青森町に移設された際に、県庁所在地の地名がそのまま採用されたものである。「青森」という地名は、江戸時代に弘前藩が現在の青森市の場所に港町の建設を始めたときに名付けられたもので、現在の青森市本町付近に海上からの目印になる青い森があったことが由来とされている。
※ここまで。

ということです。
posted by センベイ at 06:23| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。